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       最終更新日2005/05/27

 

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百姓
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百姓 ひゃくしょう

【古代】

 古代では ヒャクセイ と読み,農民に限らずひろく一般人民を指し,万民という言葉と同様な意味で用いられた身分呼称であった。その語源は,古代中国において族姓を有するすべての人のことで,百とは族姓の多いことを示す語である。日本古代の百姓は, オオミタカラ ミタミ などと呼ばれ,古代王権のもとにあった王民,公民,良民全体を含みこんでおり,律令制下では一般戸籍に編戸された班田農民,地方豪族,官人貴族らは,すべて百姓とされた。他方で 賤民 である公私の奴婢(ぬひ) と,化外の民である夷狄 (いてき) は,百姓身分から除かれて差別・疎外される存在であった。このように編戸にもとづく公民制,良賤・華夷の差別を維持することが,律令制支配の根幹であったが,一般公民の浮浪・逃亡,奴婢の解放,蝦夷の征服と抵抗が進行するにともなって,律令制はしだいに変質・解体していく。とくに班田収授が行われなくなった公田や初期荘園において, 〈土人・浪人を論ぜず〉 に農人を定め,彼らを 堪百姓 負名 (ふみよう) (たと) 作人(さくにん) などと呼び,こうして生まれた新たな公民,荘民らが,王朝貴族支配下の百姓となった。彼らは公田,荘田を大小の 〈名 (みよう) に分割して経営し,名田に課せられる官物 (かんもつ),地子 (じし) の納入責任を負うが,令制下の公民のような人身支配をうけず,移動・居住の自由をみとめられ,百姓治田など私財を所有し,権利侵害や非法苛政に対して訴訟や上訴を行うことができた。彼ら百姓身分の上層には在地領主や 〈大名〉 の田百姓がおり,その領主経営,名田経営の内部に,彼らを主人とし人格的に隷属して奉仕し駆使される下人(げにん),従者,所従(しよじゆう) など非自由民が存在したが,一般荘公民である百姓は,この下人らと身分的に区別される一種の自由民であった。

【中世】

 中世の荘園体制が確立すると,荘内田畠を分割して名田が編成され,坪付 (つぼつけ) と名称を定めた各名田を単位として年貢公事(くじ)夫役(ぶやく) を賦課する収取体系ができあがり,荘民百姓がそれぞれの名田の 名主(みようしゆ) に補任 (ぶにん) され,名主百姓が荘民を代表する呼称となった。荘園本来の名田である 〈本名 (ほんみよう) の名主百姓のほかに,平百姓,脇百姓,小百姓,間人(もうと) などと呼ばれる中下層百姓がおり,本名以外の領主直属地である間田,一色田などを耕作した。荘園村落の内部においては,本名の名主百姓はおとな などとして村座を構成する指導的・特権的上層をなし,小百姓らはこの村落秩序から疎外され,副次的な地位を与えられるにとどまった。しかし荘園支配が続く中で,小百姓,脇百姓らは村座の本座に対して新座を形成するなど,荘園村落内における地位を向上させ,旧来の本名を改編した新名の名主百姓に成長していく。それは農村諸階層の多様な変動をともなう複雑な過程であったが, 荘家の一揆(しようけのいつき) から土一揆(つちいつき) へと農民闘争が展開し,荘園村落における的結合が進むにつれて,農民相互を結びつけて領主階級に対抗する 〈御百姓〉 の意識が強化されていった。 ⇒地下請

戸田 芳実

【近世】

[百姓の概念]

 中世から近世への転換期には兵農分離 (検地刀狩) が強行され,都市と農村の分離,城下町建設 (武士団の城下への集住,武士の生活と軍備をささえる職人,商人の城下への集中) が推進されて, 士農工商 の 4 身分が確定された。この 4 身分中の農と百姓とは同義ではない。 農民 のうちで特定条件を備えているものが百姓であった。 太閤検地以後,領主権力の指向するところは,高請 (たかうけ) 農民を百姓にとりたて,百姓を権力の基礎として掌握し,百姓から直接 (作間 (さくあい) の禁止), 年貢 ・諸役を徴集することであった。しかし近世初期検地での高請農民中には,中世以来の系譜をひく有力農民もいれば,半隷属的小農民も含まれていた。このほかにも帳外 (ちようはずれ) の隷属農民が多数存在していた。これらの隷属的・半隷属的弱小農民は,自立した百姓としての地位をいまだ確立していなかった。初期においては,年貢 (生産物地代) はたてまえとして高請農民全体に賦課されていたが, 夫役(ぶやく) (労働地代) は 役負百姓 (やくおいびやくしよう) が負担し,村内上層の有力農民が役負百姓とされた。そのため村請年貢の実際上の負担責任者が役負百姓となり,初期の名寄 (なよせ) (村請年貢納入のための村内土地台帳) においては,役負百姓だけが登録されて,弱小高請農民は除外されていた。近世初期,17 世紀前半期においては,高請地を所持し,年貢と夫役とを負担する役負百姓が厳密な意味での百姓であり,これを 初期本百姓 ともいう。初期本百姓は,検地帳に田畑とともに屋敷を登録され, 家族 形態は複合大家族 (直系親族,半隷属的傍系親族,隷属的非血縁下人などから成る) の形態をとり,大規模農業経営 (数町〜十数町) を営んでいた。彼らは村落内部の生産,生活,祭祀などの全般にわたって弱小農民に対して優位を保持し,用水,農用林野 (肥料,燃料,用材の供給地) を支配し, 宮座(みやざ) に列するなどした。

  17 世紀後半期には 小農 の自立がすすみ,複合家族が解体して傍系親族や下人が分立し,隷属的・半隷属的小農民の零細石高 (こくだか) 所持者への転化,あるいは水呑(みずのみ) への転化が進行し,所持石高の大小にかかわらず石高所持者がすべて百姓として領主に掌握されるようになった。幕領では 1660 〜 70 年代,寛文・延宝検地を境にして,検地帳に高請地の登録を受けた 高持 百姓が百姓とされ,これが本百姓と呼ばれた。彼らの家族構成は 単婚小家族 形態をとり,農業経営は 小農経営 を営んだ。小農の自立に照応して,石高所持者を村落構成員とする 小農村落 が成立し,石高所持の有無が村落構成員たる資格の基準となり,石高所持者が本百姓として村請(むらうけ) 年貢と村入用の負担責任者とされた。村落内においては,村役人とひら百姓の違いを含んでいても,両者はともに百姓であった。これに対し無高の者は,水呑と呼ばれて村の寄合からも排除されていた。水呑はしばしば水呑百姓とも呼ばれるが, 17 世紀末ころ以後においては,厳密には高持百姓たる本百姓が百姓である。

[領主の百姓支配と百姓の諸負担]

 領主による百姓支配の基軸は,小農を百姓として自立させ,百姓を石高制にもとづく生産物年貢の負担者として掌握し,それを領主権力の基礎に据え,権力の経済的基盤としての百姓経営を強化し,その数を増加させ,より多くの年貢・諸役を百姓から取り上げることであった。したがって近世初期,小農の自立過程においては,領主は小農自立策を内容とするさまざまの勧農施策を打ち出した。特に,領主が施工主体になって推進した土木灌漑工事は,農業の生産基盤を飛躍的に強化・拡大させ,小農自立の生産力的基礎を創出し,隷属的小農民の百姓への成長転化に大きく寄与した。これと同時に,五人組制度,田畑永代売買禁止令分地制限令,そのほか農民生活や農業生産を規制する御触書 (おふれがき) (たとえば慶安御触書) などによって,百姓は土地に緊縛されて年貢・諸役を負担するものとされた。百姓は高請地の年貢納入義務を完済するかぎり,田畑の耕作と屋敷への居住を末代にいたるまで保障された。しかし離農・離村は許されない。

 領主の百姓に対する年貢賦課の原則は, 〈一年の入用作食をつもらせ,其余を年貢に収べし,百姓は財の余らぬ様に不足なき様に,治る事道なり〉 ( 《本佐録》 ) という記述に端的に示されている。再生産を維持しうる最小限の作食入用を百姓の手もとに残し,それを越えるすべてを年貢として取り上げろという。備前岡山藩主池田光政 (1609‐82) の言葉に 〈百姓といふものは,米をは不食者,糠 (ぬか)・はしか (芒) なと食物にする物にて候よし……,惣して百姓も人に候へは米を食する筈にて候共,得不食様に此方より仕置仕故,近年は不食候〉 ( 《藩法集岡山藩》 ) とある。百姓は米を作るが米を食わない。作った米の大部分を年貢として上納するからである。

 百姓の諸負担には,石高に対して賦課される本年貢 (本途物成(ほんとものなり) )のほかに, 小物成(こものなり) や夫役の負担が加わる。本年貢は現物米納を主体にして一部石代納(こくだいのう) (上方幕領の三分一銀納,十分一大豆納,関東の畑永 (はたえい) など) が認められていた。雑税としての小物成は,初期には山野の特産物による現物納を含んでいたが,やがて代金納に変化した。夫役は本来,本年貢とならんで石高に賦課される労働地代であり,初期には陣夫(じんぷ) 役,普請 (ふしん) 夫役,運搬夫役,町夫役などが役負百姓 (初期本百姓) から徴発された。 17 世紀中葉以後,石高制が貫徹して小農が百姓として自立するようになると,夫役もまた代金納 (幕領では高掛三役(たかがかりさんやく) )にかわっていった。しかし中期以後においても,百姓からの労働徴発が完全に消滅したのではなく,街道筋村々での助郷(すけごう) 役,あるいは現物年貢納入義務にともなう年貢運搬労働 (村方 5 里以内は百姓の負担) などとして,その後にも残った。これらの年貢・諸役の諸負担は年貢徴集機構としての村を通して百姓に賦課され,その完済は村中惣百姓の連帯責任とされ,村役人がその実務を担当した。

[初期本百姓の農業経営]

 太閤検地の実施以後およそ 1660 〜 70 年代 ( 寛文・延宝期 ) ころまでは,小農が支配権力の基礎として掌握されながらも,小農の未成熟さのために,中世的な古い生産関係にもとづく村落上層農民 (初期本百姓) の農業経営と,そのもとで徐々に自立度を高めつつある小農経営とが併存していた。中世名主の系譜をひく初期本百姓の農業経営は解体しつつある生産形態であり,小農経営は近世期農業の基本的な生産形態として自己を確立しつつあった。村落上層の初期本百姓の農業経営の特徴は,隷属的性格の労働を利用して大経営を営む点にある。すなわち,家内奴隷的性格をもつ 譜代下人 (ふだいげにん) の労働と,半隷属的な小農の提供する 賦役 労働とに依拠して,大経営が維持されていた。半隷属的小農は 名子 被官 家抱 (けほう) 隠居 門屋 (かどや) など各地でさまざまの呼び方をされているが,これらはいまだ自立を達成しえない自立過程にある小農の姿である。これらの小農は 親方 御家 公事屋 役家 などと呼ばれる村落上層農民 (初期本百姓) に隷属し,生産・生活の全般にわたって主家の支配と庇護を受けていた。彼らは主家から零細耕地を分与され,主家の許しを受けて 刈敷 (かりしきば) から 肥料 を採取し,自分持ちの小 農具 ( (くわ) ,鎌 (かま) )で分与地を耕作し,そこで自己の再生産をまかない,一定日数の賦役労働を主家の農業経営に提供した。主家への労働提供に際しては,大農具 (家畜, (すき) ) は主家のものを使用し,小農具は自分持ちの農具を持参して使用し,食事の給付などを受けた。

 近世初期における農業の発達の水準のもとでは,農業の基調は自給的穀作農業におかれていた。村落上層の大経営では, 耕耘 過程で畜力を利用し,犂を使用して耕起した。 肥料は山野で採取される草や灌木の若芽である。これを稲作の苗代 (なわしろ) にも本田の元肥 (もとごえ) にも利用する。それを採取する労働量は田植労働量にも匹敵する。そのために刈敷採取労働と田植労働との重複する田植期には,極端な労働需要のピークが出現する。収穫から 脱穀 への作業過程でも労働需要がたかまる。扱(こきばし),扱管 (こきくだ) による脱穀技術の低さが所要労働量を増大させるが,これに加えて,領主側で要求する米納年貢納入期限の厳守にせきたてられて作業期間が短縮され,労働需要のピークが極端に高くなる。村落上層の農業経営では,春秋 2 期の農繁期の労働需要を切り抜けるために半隷属的小農の賦役労働が充当される。年間を通じて恒常的に必要な労働には譜代下人の労働が充当され,農繁期の集中的に必要な季節的労働に賦役労働の提供を受けた。このような中世的遺制に支えられた農業経営の存立する基盤は,農業の発達水準の低さにある。農業生産力の上昇をふまえて半隷属的小農が百姓として自立するようになれば,上記の農業経営は姿を消す。しかし後進地や山間僻地ではそれが過去の遺制として存続しつづけた。

 全体として自給的穀作農業が支配していた初期にも,はやくから購入肥料を利用して販売用作物を栽培していたのが,大坂周辺を中心とした畿内地方である。泉州大鳥郡踞尾 (つくのお) 村に残された農業経営帳簿によれば, 1673‐78 年 (延宝 1‐6) には,村落上層部に属する初期本百姓の農業経営において,田畑ともに (ほしか) が投入され,田にも販売用の が作付けられていた。この経営での農業従事者には,恒常的な労働要員として血縁家族,譜代下人, 年季奉公人 があり,そのほかに臨時的な労働要員として,無償の労働提供を行う借家,分家,小作人などがいる。最後の 3 者と譜代下人とは隷属的性格をもつ労働主体であるが,年季奉公人を雇用している点に,この経営の特徴が現れている。 1670 年代に,いちはやく大量の金肥 (きんぴ) を利用しつつ,一部に年季奉公人を雇用して商品作物栽培に従事している点に,畿内先進地における初期本百姓の農業経営の姿が示されている。

[小農経営としての百姓経営]

  1660 〜 70 年代 (寛文・延宝期) を経過して小農が百姓として自立するとともに,小農経営としての百姓経営もまた確立する。小農経営としての百姓経営こそ,近世農業の基本的経営形態である。その農業経営の第 1 の特徴は,小家族 (単婚小家族形態) の自家労働と自己所有の小農具とを駆使して,領主に認められた所持地 (高請地) を自己の責任のもとで耕作するという点にある。その意味で百姓は自立した小生産者である。小農経営の依拠する耕地は零細圃場の錯綜状態をその特徴とする。この耕地形態は小農が百姓として自立する過程で形成された,といわれている。小農の利用しうる労働組織は,家族労働の範囲内に限定されている。春秋 2 期の農繁期を単婚小家族による家族協業で切り抜けるには,錯圃形態の耕地が適していた。この圃場条件に支えられて,家族労働を中核にしながら,農繁期の補完的労働としてゆい を採用し,小農の家族形態に照応した労働組織が構成される。小農経営に適合的な耕耘用具は鍬である。これを使用して田畑とも,耕起,砕土,中耕が行われる。鍬の用途別分化もすすみ,除草用の小型の熊手や雁爪 (がんづめ),耕起用の備中鍬など,さまざまな鍬が考案され出す。近世末期の農書 《農具便利論》 (1822) は,その分化・普及の状況を伝えている。収穫用具は鎌である。脱穀用具は,17 世紀から 18 世紀の移行期には,扱,扱管から千歯扱 (せんばこき) へと変化し,作業能率は 10 倍になったといわれる。調整用具は,粋刹フ(もみすり) には 2 人で動かす木製の木臼,選別は風選である。

 小農経営としての百姓経営の第 2 の特徴は,その生産=再生産が小農村落を単位にして行われるという点にある。小農村落は小農がそこから切りはなされては自己の生産・生活を維持しえないような地域的なまとまりをもち,そのまとまりが農業生産,農民生活の単位となるような村落である。太閤検地は,小農の自立過程で徐々に形成されつつある生産・生活上の単位としての地域をとらえ,そこに地代収取の末端機構としての行政村を設定し,そのことによって小農村落の形成に直接的な契機を与えた。しかし,それによって形成された近世初期村落は初期本百姓の村であり,中世から受けついだ同族団的結合にもとづくヒエラルヒッシュな階層関係が解体過程にありながらも維持されて,それが初期村落中にもちこまれた。小農の自立とともに古い諸関係をまとう初期村落は解体し,地域差をともないながらも,17 世紀末ころには,石高所持者を構成員とする小農村落が確立する。これによって小農経営としての百姓経営は,生産=再生産の強固な基盤を獲得する。小農経営は自立的な小農=百姓による農業経営である。しかしそれは孤立して営まれるのではない。小農村落の管理下にある用水・林野の共同利用に媒介されて,はじめて自立的な小農経営となる。 零細錯圃 形態をとる耕地のうえで,用水の共同利用が行われるとき,農業に対する強い村落規制が発生する。さらに肥料が自給的な刈敷に依存する場合には, 入会 (いりあいやま) の口明 (くちあけ) が村全体で決定され,林野の共同利用を通して村落規制の拘束下におかれる。 を単位にした生産・生活の一環として,小農たる百姓の生産・生活が保障されている。

 小農経営が確立すると,初期本百姓の系譜を引く上層の百姓の農業経営は,隷属的労働への依存を断ち切られて,年季奉公人を雇用する 地主手作 (てづくり) 経営へと移行する。年季奉公人は小農=百姓の単婚小家族から放出される。年季奉公人は小農経営の再生産を補完する役割を担っている。したがって,小農経営の再生産過程の中に農業労働の供給源を求める手作経営の性格は小農経営の動向に規定されることになる。

[自給経済から商品経済への移行]

 近世農業の典型は自給的穀作農業にある。百姓は,穀作に重点をおきつつ雑多な作物を必要に応じて少量ずつ作る。田では年貢のための米を作る。収穫した米の大部分が年貢米として取り上げられる事情のもとでは,百姓の自給自足的な日常生活は,主として 畑作 で支えられている。畑では雑穀 (麦,アワ,ヒエ,ソバ,大豆など) を作って食料にする。そのほか少量の苧麻 (からむし),棉などを作って自給衣料の原料とし,屋敷まわりには前栽物 (せんざいもの) を作って蔬菜を自給する。自給自足的な百姓の生産・生活を支えるのに必要な年間の農作業には,田畑での本来の農耕の諸作業とともに,山野での山仕事および農産物加工の仕事が含まれている。山野での労働によって,肥料,飼料,燃料,農用資材,土木建築用材などが自給される。自己農業で生産した衣料原料を加工して衣料をも自給する。村内で自給しえない特定の物資 (鉄製農具,塩など) を除いて,百姓の生産・生活に必要な諸物資は,村を基盤にした自給自足的生産・再生産によってまかなわれている。村の外から供給される鉄製農具や塩などの物資についても,自由な市場での貨幣による購買を通して百姓が入手するのではない。領主の手に集められた物資が藩専売制の形をとって村々に供給され,それに対する支払については,年貢納入に類似する形態で,百姓が自己生産物を現物で支払うのである。

 領主は,自給自足的生産・生活の単位としての村を掌握して年貢を収取した。本年貢は主として米,これに小物成が加わり,それが領主の御蔵に現物形態で収納される。その一部は現物のまま領主および家臣団の自己消費に当てられるが,他の部分は,三都および城下町の都市人口の需要に向けて,都市商人の手を経て販売される。米を主体にした現物年貢の商品化を起点にして,都市需要を充足するための,都市商人に担われた全国的商品流通組織が形成される。この流通組織のもとで,自給自足的農村を基盤にした百姓経営が都市需要のための特産物の生産と販売へ動き出す。最初の変化は畑作から始まる。米納年貢の重圧を受ける自給自足的な百姓経営にとって,畑作は百姓の日常生活を支える場であった。生活をうるおすための販売用作物の栽培が畑作ではじまる。まず商品になったものは,都市の日常的消費をまかなうための 蔬菜 であった。各地の城下町では,生鮮食料の供給を周辺農村に依存していたが, 1700 年ころには,大坂周辺の畑場 (はたば) 8 ヵ村,京都周辺の蔬菜・果実の名産地,金沢周辺の蔬菜作地帯などが,それぞれの都市への蔬菜供給地帯を形成していた。都市向けの販売用作物は近郊蔬菜には限らない。大坂周辺には棉作地帯,菜種作地帯が形成され,棉作,蔬菜作が東海・瀬戸内地方にもひろがっていった。このほか阿波の藍,出羽村山地方の紅花,上州や信達地方の養蚕,摩・讃岐の砂糖などは,いずれも江戸,大坂,京都などの都市の需要と結びついて特産地を形成し,その流通組織は都市商人あるいは藩専売制の統制下におかれていた。

 領主の年貢の商品化,都市商人の担当する全国的商品流通組織,そのもとでの農産物商品化,特産地形成という方向での農業の発展は,百姓経営における畑作に変化をおよぼす。畑作での販売用作物の作付率の増大,購入肥料の使用,農業技術の集約化をもたらす。自給的穀作農業からの脱却は自給肥料から購入肥料への移行に示されるが,それは大坂周辺の棉作農業からはじまる。大坂周辺で干が利用されるのは 17 世紀中葉以降であり,百姓の記録中で干利用を最初に確認しうるのは,先に指摘した泉州踞尾村の農業経営帳簿 (1673) である。そこでは田畑ともに棉が作付けられ,干が利用されて棉にも稲にも与えられている。 18 世紀にはいると採草地を欠いた大和川川床新田が出現し,そこでは購入肥料を利用し,畑はすべて棉作に当てられていた。河内中・南部の旧村でも棉作等は 30 〜 50 %におよんでいる。棉作農業の普及にともなって,農業技術もまた集約化した。 1697 年 (元禄 10) に刊行された 《農業全書》 (宮崎安貞著) は,大坂周辺農村を先頭にする畿内先進農業の,当時の発達水準を概括的に伝えている。そこには,周到な肥培管理を行い,多労働と多肥料とを投下して,単位面積当りの収穫量を増大させるという方向での,小農技術の高度な水準が示されている。これ以後における近世農業全体の趨勢は, 17 世紀末〜 18 世紀初頭の時期に大坂周辺農村で実現された先進的農業 (小農経営の枠組みの中での最高度の発展) が,各地に伝播してゆく方向をたどる。

[百姓経営の分解と地主・小作関係]

  17 世紀末〜 18 世紀初頭以降における上述のような農業の発達は,百姓経営 (小農経営) に担われた農業生産力の発達である。大坂周辺農村では元禄期 (1688‐1704) には農産物の販売がみられ,田畑永代売買禁止令下での事実上の 永代売 が行われ,それにともなって百姓所持地の集中と喪失がすすみ, 質地小作 関係が展開する。 1723 年 (享保 8) の流地禁止令撤回を経て,質地小作は各地で広範に,急速に展開する。これは近世初期の名田小作と本質的に異なる 地主 小作 関係である。すなわち,小農としての百姓の自立を前提にし,百姓経営に担われた生産力上昇を基礎にし,年貢収奪強化に対する百姓の抵抗 (百姓一揆) を踏まえて,年貢完済後に百姓が自由にしうる余剰を生み出し,以上の諸点を条件にして土地の質入れが行われるとき,質地小作が発生する。百姓をその所持の質入れ (事実上の永代売) に追い込んでゆく素朴で深刻な契機は,不慮の災厄による年貢未納であり,未納分を所持地の質入れで皆済するとき,質地小作が生まれる。質取主は小作料取得をねらって金銭を融通し,質入人は質入地を耕作して小作料を納める ( 質地直小作 (じきこさく) )。 村役人 の年貢納入事務に結びつく金融活動によって, 質地 の集積が村役人のもとですすむ。さらに,都市商人の掌握する商品流通組織のもとで,農産物の販売が行われるとき,質地の集積が村役人のもとで急速にすすむ。都市商人の集荷組織は村役人の商業的・金融的機能を媒介にしている。 肥料や金銭の前貸しをてこにして百姓の農産物を集荷し,その過程で零落した百姓の所持地が集積される。このように,村役人が村役人としての機能と結びついて,手作規模を越える質地の集積を行い,商業的・金融的機能を営みつつ,手作経営を営む。このような質地地主を, 豪農 と呼ぶのである。

 各地に地域的発達の差を内包する近世農業の中で,先進地農業の動向を大坂周辺農村で代表させることができる。大坂周辺農村では 1820 年代,文政期を迎えるころから,質地小作の水準を乗り越えて,明治以降の 地主制 の原型をなす地主・小作関係が形成されはじめる。しかし残余の広範な地域での動向は,大坂周辺農村と同一水準のものではない。残余の地域での大勢は,質地小作が展開する中で豪農が存立しているという状況にあり,これが明治期を迎える時点での各地の姿だったといえる。大坂周辺農村では商品作物栽培が下層の小百姓にまで普及し, 17 世紀末の事実上の永代売にはじまる土地集積は, 18 世紀以後さらに進行して新興の大高持百姓を輩出させる。これが小作地を貸し出すとともに,3 〜 5 町歩の地主手作経営を行い,下層小百姓の放出する年季奉公人を雇用して商品作物栽培に従事する。地主手作経営の展開とともに,新興大高持と旧来の村役人との間では村役人層の交替がみられるが,これが零細小農民をも巻き込んで村方騒動をともないながら進行する。農村の諸階層のすべてに普及した商品作物栽培は,農産物商品化の条件をめぐって,特権的商品流通組織を掌握する大坂商人と商品作物栽培者との対立を生み出す。

 文政期 (1818‐30) になると,大坂商人の市場統制に対抗する在郷の動きが活発化する。 1823 年,摂河 2 ヵ国 1007 ヵ村を糾合した 国訴(こくそ) が発生し,その翌年さらに摂河泉 3 ヵ国 1307 ヵ村による国訴が展開し,綿関係 (実綿 (みわた)・繰綿 (くりわた) ),油関係 (菜種,綿実 (わたみ),油) の商品に対する都市株仲間の流通独占に反対して闘争した。この闘争では,商品作物栽培に従事する村役人 (地主手作経営を営む) がその動きの先頭に立ち,広範な村々を糾合し,合法的手段 (訴訟) を通して都市商人に対立し,一応の成果を収めることができた。この時期以後,大坂周辺農村では,農産物商品化が一段とすすみ,地主手作経営を営む村役人の土地集積もまた急激にすすむ。しかし集積された土地は手作地の拡大には向けられず,地主・小作関係を拡大することになった。それは経営規模拡大による生産性の向上によって,より有利な商品生産を行う技術的・社会的条件を欠いていたからである。 17 世紀末以降の農業の発展は,百姓経営 (小農経営) を基盤にしていた。小農経営に独自な生産力発展の方向は,労働生産性の向上ではなく,集約的技術による反当収量の増加である。さらに加えて,小農経営の立脚する耕地条件 (錯圃制) と,その利用にまつわる社会的制約とが,大規模経営の存立を許さなかった。そのため土地集積の進行は,地主・小作関係の拡大に結果し, 1820 年代以後,新興の地主を輩出した。この時期になると,領主層の財政が極度に悪化し,新興の地主から金融を受け,財政維持のために,彼らの経済力への依存を強めた。そのために,地主層の立場を擁護する必要から,領主権力が地主の小作料収奪に不可欠な強制力の,隠然たる支柱となった。

  1820 年代以後の大坂周辺農村で形成されていた地主・小作関係は,土地が売買可能な財産であることを実質において備えていた。 地租改正 は,そのような土地所有権を法律的に認めた。 質地地主 の段階にとどまっていた関東や東北においては,質入地は質期間が過ぎても,ながく所持名義人を変更しない慣習があったが,地租改正の過程で質権者に,大坂周辺で実質において成立していた土地所有権と同じ内容の所有権を認めることによって,土地所有の移動を活発にし,質地地主の土地所有の内容を変えていった。

葉山 禎作