welcome 堆肥屋com     

[ ホーム ] まぜた君 ] AZニーム ] スサノオ ] ソフトシリカ ] 肥料概論 ] ECO栽培 ] 土壌環境研究 ] 基礎知識 ]

土壌環境研究

堆肥と炭酸ガス(CO2)

堆肥投入の意義

堆肥や有機物の施用が一般的になってきた昨今では、その投入の意義が特に真剣に検討され始めています。

自分がこの農業分野に関わり始めた頃(平成5年)には、自分の知識が異常に少ないこともあるでしょうが、EM菌の比嘉教授の書物が多く出版され、各自治体もこぞってEM菌などの嫌気性菌を取り入れた有機物分解や堆肥化の事業などが新聞を賑わしていました。

すでに下火となっていた福岡翁の自然農法の”無の思想”などの実践者が、鶏ふんなどの投入過剰による反省からの不耕起栽培の推進などがありました。

日本有機農業研究会の九州大会(平成5年秋雲仙)に参加したときには、その話題はもっぱら堆肥の投入量の是非ではなく、不耕起の優秀性とEM菌の宣伝に終始していました。

化学肥料の善悪の判断以前に有機物とくに粗大有機物の施用が良品生産に多大な貢献があるとの認識で、その科学的分析をあまり行うことなくできる限り大量に投入するようになり、茨城県の梨農家では、そのために小型のユンボを知り合いの建設業者などから安価に借りたり購入して、堆肥を5トン入れたとか、バラ農家では2トン車5台分は投入したことの、労力を農業の過酷な労働の見本のように自慢するものまで現れました。

そういった人たちは、必然的に石灰を投入しとりわけ有機石灰の代表のカキガラを大量に投入しチッソの方効きを経験的に抑えていました。

そこで現れてきた必然的な経験は、入れすぎは良くないとのことで”過ぎたるは及ばざるが如し”古今東西繰り返した失敗をまたも冒し反省し始めました、最近の農家で良品を生産している方は、その反省にいち早く気づき、とくに有機栽培では思うように良品を生産できないことを経験し、あらゆるものを(化学肥料や堆肥)消極的に言ううなれば摂生して投入することの意義に気づき始めています。

しかし、常に先進的なことは注目されず物事を端的に善悪を二者択一に分けたものに真理があるかのような錯覚に常に振り回されます。

新聞やテレビ、ラジオでは依然有機栽培が招来の国民の健康に無くてはならないように宣伝していますが、日本経済新聞や永六助さんの土曜ワイドなどに、何度となく昨今の堆肥の投入過剰による環境破壊と粗悪品の生産の原因は、化学肥料より有機物の盲目的な使用方法にあることを、調べたり農水省に問い合わせたりすることを進言していますが、全く取り合ってくれません。

真実を理解するには実践は不可欠で、農業を真に理解するには経営農業をするしか無理なのです。

一部のタレントや、有機栽培家は、特殊な販売方法や収入を他から求めての農業であり家庭菜園と何ら変わりのないものです。

経営農業とは営利目的のようは金目当ての農業で、不純なような印象も受けるでしょう、しかし農業の真意は、生活であり生命であるのです。

金目当てでないにしても、古代には不作は一家離散、餓死を招くもので、家庭菜園のようなお遊びでは決してないのです、イスラムの人がごく一部テロ行為を起こすことの動機には、食糧不足で子供たちが栄養失調や餓死をしてしまう貧困にあり、貧困とはテレビを見たり車に乗ってコンサートに行くことができないことでなく、単純明快に腹が減ってしまうことです。

アメリカが正義なのは(異論もあるでしょうが)世界の穀物倉庫としての責任を果たしているからで、ヨーロッパから200年以上前に移住したのは、人口増加に伴う食料の生産地として新世界を夢見たのです、日本もそうであるように穀物は大半がアメリカやオーストラリアから供給されるため我々地球上の人間は貧困や飢餓にあうことを他人事のようにしていられるのです。

イスラムの悲劇はラマダン(断食)を行い農業の大切さを痛感できるべく儀式も、その国の支配者がその意義と農業の大切さを理解していないための悲劇です。銃を持つ前に鍬を持つべきで、アメリカに憎しみをぶつける前に、そのエネルギーを大地に向け種をまくべきなのです。

話がそれましたが、経営農業はそのまま人類の平和に不可欠なもので、失敗は許されないのです、失敗した場合には反省しその失敗を二度と繰り返してはいけないことなのです。

自分も含めて失敗者には、悲劇をもたらしますが、成熟した経済社会の昨今では、直接貧困にあえぐことも回避されるので、その失敗をばねに今一度挑戦することができます、たとえ何年かかっても。

土作りと施肥
堆肥と炭酸ガス
消石灰
土壌型